ブッカ・ホワイト / Bukka White

Bukka White ブルースマン

情報 / Data

出生名ブッカー・T・ワシントン・ホワイト
生まれ1906年11月12日 米国ミシシッピ州アバディーンとヒューストンの間
死亡 1977年2月26日(70歳)テネシー州メンフィス
ジャンルデルタブルース、カントリーブルース
職業音楽家、ソングライター
楽器 ボーカル、ギター、スライドギター
活動期間1920年代後半から1977年
レーベル ビクター、ボーカリオン、Okeh
Wikipediaより

特徴 / Feature

  • ナショナルスチールボディのギターを使うスライドギター
  • Emクロスノートチューニングをよく用いる
  • シンプルで力強く、個性的な曲
  • 母親はB.B.キングの祖母と姉妹(いとこ関係)

略歴 / Biography

若年期

1906年11月12日にミシシッピ州チカソー郡ヒューストン(Houston, Chickasaw County, Mississippi)の近くで生まれました。(テキサスのヒューストンではない)

フィドルを演奏する鉄道員の父よりフィドル(バイオリンの一種)を学び、後にギターを学ぶ。祖母は悪魔の音楽と反対していたようです。

1919年(13歳)頃に叔父の農場で働くためにミシシッピ州グレナダ(Grenada, Mississippi)に引っ越しました。

活動期

13歳の1919年に、彼はシカゴ(Chicago)に向かい、そこで盲目のギタリストと路上で演奏をしていました。

1920年(14歳)に、彼はミシシッピ州クラークスデール(Clarksdale, Mississippi)に戻り、そこで叔父と一緒に暮らし始めました。この間チャーリー・パットン(Charley Patton)と交流しギターやフィドルの即興のための基本的音楽理論を学んだと言われています。

セントルイスで働いていたとき、ジョニー・トーマスという年配のミュージシャンと親しくなりギターとピアノのレッスンを受けました。

1925年(19歳)に結婚をしたとき、父親からステラギターをプレゼントしてもらいました。妻は虫垂炎を患いその3年後に亡くなってしまいました。

しばらく、貨物列車に乗る渡り労働者として国内を巡った後、メンフィスへ戻って再婚し、アバディーン(Aberdeen)近くに定住しました。

レコーディング

1930年(24歳)にプロデューサーのラルフ・レンボ(Ralph Limbo)と出会い、ビクターメンフィススタジオに通い14曲のレコーディングを初めて行いました。しかし、不況のため4曲のみリリースされたのみでした。生計を立てるのが難しかったため、ニグロリーグのプロ野球をしたり、ボクシングをしたようです。

1937年(31歳)にビッグ・ビル・ブルージン(Big Bill Broonzy)からレスター・メルローズ(Lester Melrose)のためにシカゴでレコーディングをするよう誘いを受けました。

しかしこの時までに問題に巻き込まれていました。ミシシッピのホンキートンクは暴力的な世界で、待ち伏せされ、防衛のために相手の太腿を撃ち暴行罪で逮捕されました。1937年秋に刑期が開始する前の保釈期間中に、逃亡してシカゴへ向かいボーカリオンレコードのために2つのレコーディングを行いました。

その後、ミシシッピ州立刑務所パーチマンファーム(Parchman Farm)で3年間収容され、その間に”Shake ‘Em on Down” がヒットし、シカゴブルースのレパートリーの一つとなりました。

1939年(33歳)、パーチマンファームにいる間に、音楽学者のジョンとアラン・ローマックスにより2曲のレコーディングが行われ、米国議会図書館に納められました。

1940年(34歳)出所後に、シカゴへ戻りレスター・メルローズのために”Fixin’ to Die Blues”など新曲12曲を用意してレコーディングを行い、ボーカリオンとOKehのレーベルからリリースしました。このセッションは彼の音楽活動の頂点とされています。

その後姿を消し、第二次世界大戦中はメンフィスの工場で働いていました。戦後はフランク・ストークス(Frank Storks)と共に演奏していました。1947年(41歳)いとこのライリー・Bキング(Riley B.King)と一緒に暮らし始め、彼の音楽的エネルギーはいとこに注ぎ込まれました。後にライリーはB.B.キング(B.B.king)として成功していくことになります。

再発見

1961年(55歳)にボブ・ディラン(Bob Dylan)のデビューアルバムに”Fixin’ to Die Blues”が収録されましたが、音楽業界ではその作者が誰なのか知る人はいなくなっていました。

1963年(57歳)にカリフォルニア大学のブルース愛好家、ジョン・フェイ(John Fahey)とエド・デンソン(Ed Denson)が「ブッカ・ホワイト(年輩ブルース歌手)」宛でアバディーンへ局留め郵便を出したところ、その局にたまたま勤めていた親戚がメンフィスへ転送してくれ発見に繋がりました。

その年の秋、彼は西海岸へ向かい、3枚のアルバムを作成したり、the West Coast folk revivalやthe Ash Grove(Los Angeles)等で演奏をしました。60年代に再発見されたブルースマンの中では最強のパフォーマーとしてみなされています。

晩年期

晩年はメンフィスに居住して、音楽活動を続けました。フューリー・ルイス(Furry Lewis)などと親交がありました。

Sky Songs(1965)、BigDaddy(1970)は名アルバムを作成。

1968年(62歳)にメキシコシティで開催された夏季オリンピックに出演。

1972年に(66歳)イギリスとドイツをツアーし、ドイツでは2枚のアルバムを作成。

1977年2月26日、テネシー州メンフィスで癌のため70歳で亡くなりました。

関係する人 / Persons involved

親戚 / Relatives

B.B.キング

影響を受けた人 / Affected Persons

チャーリー・パットン

バレット・ウィリアムズ

共演者 / Co-star

フランク・ストークス

フューリー・ルイス

ウォッシュボード・サム

影響を与えた人 / The person who influenced

レッド・ツェッペリン

アラン・ワイルダー

エリック・ビブ

ゆかりの地 / Land related to

①ヒューストン(Houston, Chickasaw County, Mississippi)
生まれた場所

②グレナダ(Grenada, Mississippi)
叔父の農場で働くため引っ越した場所

③シカゴ(Chicago)
盲目のギタリストと路上で演奏した場所

④クラークスデール(Clarksdale, Mississippi)
叔父と暮らし、チャーリーパットンから影響を受けた場所

⑤セントルイス(St. Louis)
ジョニー・トーマスからギターやピアノをレッスンを受けた場所

⑥アバディーン(Aberdeen)
再婚して、定住した場所

⑦パーチマンファーム(Parchman Farm)
3年間収監されていた場所

⑧サウス・サイド(South Side)
レスター・メルローズのスタジオがあった場所

⑨メンフィス(Memphis)
工場で働き、ライリー・Bキングと一緒に暮らした場所

⑩西海岸バークレー(Berkeley)近郊
再発見された後、活動した場所

⑪ニュー・パーク・セメタリー(New Park Cemetery)
墓がある場所

おすすめの曲 / Recommended songs

Aberdeen Mississippi Blues (1940)

Shake Em On Down (1937)

Poor Boy Long Way from Home (1963)

Fixin’ To Die Blues (1940)

special streamline (1940)

When Can I Change My Clothes

Bald Eagle Train

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