- 情報 / Data
- 特徴 / Feature
- 略歴 / Biography
- 関係する人 / Persons involved
- ゆかりの地 / Land related to
- おすすめの曲 / Recommended songs
- Frankie (1928)
- Stack O’ Lee Blues (1929)
- Candy Man Blues (1929)
- Avalon Blues (1930)
- Salty Dog (1963)
- Coffee Blues (1964)
- Pay Day (1966)
- Make Me a Pallet on the Floor (1966)
- Since I’ve Laid My Burden Down (1967)
- You Are My Sunshine (1971)
- Let The Mermaids Flirt With Me (1972)
- You Got To Walk That Lonesome Valley
- Cocaine Blues
情報 / Data
出生名 | ジョン・スミス・ハート |
生まれ | 1893年3月8日 米国ミシシッピ州テオック(アバロン) |
死亡 | 1966年11月2日(73歳)米国ミシシッピ州グレナダ |
ジャンル | デルタブルース、カントリーブルース、フォーク |
職業 | シンガーソングライター、小作人、農場労働者 |
楽器 | ギター、ボーカル |
活動期間 | 1901年~1966年 |
レーベル | Okeh、ヴァンガード |
Wikipediaより
特徴 / Feature
- 親指でベース弦でリズム、他の3本指でメロディーやコードを弾くフィンガーピッキングスタイル
- 温厚で控えめな人間性、音楽の嗜好も同様
- 曲はソフトで軽快なコードワークであり、歌声は単調だがとても暖か味があり、独自のブルース
- とても多くのレパートリーを持っている(ブルース、ラグタイム、フォーク、スピリチュアル、バラッド)
略歴 / Biography
若年期
ジョン・スミス・ハート(John Smith hurt)は、1892年3月8日にミシシッピ州テオック(Teoc, Mississippi)で生まれたと一般には言われているが、生まれた年は曖昧で墓票には1893年と記されている。生後数か月で母親と共にミシシッピ州キャロル郡の人口100人以下の丘陵の町アバロン(Avalon, Mississippi)へ移り住みました。
1901年頃(9歳頃)、母親に$1.5のギターを購入してもらい、ほぼ独学でギターを練習しました。そのギターに「ブラック・アニー」と名付けました。隣人ウィリアム・ヘンリー・カーソン(William Henry Carson)や、その地域のブルースマンで12弦ギターとハーモニカを演奏するルーファス・ハンクス、カントリーシンガーのジミー・ロジャーズから影響を受けたようです。
活動期
5年生で学校を辞め母親の農業を手伝い、空いた時間にギターを弾きました。1910年頃になると小作人として働く傍ら、パーティーなど人の集まりの中で演奏するようになり腕を上げていきますが、他のブルースマンのように地元を離れることはありませんでした。1916年(24歳)一時的に鉄道の仕事につき各地を回ったとき違った音楽スタイルや新しい曲に触れました。
1916年(24歳)に1回目の結婚しましたが1922年(30歳)には別れてしまいました。
1923年頃(31歳)に白人のフィドル奏者のウィリー・ナムール(Willie Namour)にギターのパートナーを頼まれました。当時人種差別のあったミシシッピでのことを考慮すると、ハートの音楽的能力に対する賛辞でしょう。
1927年にナムールがフィドルコンテストで優勝し、Okehレコードでレコーディングをすることになったとき、プロデューサーにハートを推薦しオーディションを設定しました。ハートは2曲目を弾いている途中で十分だと言われレコーディングに招待されました。
レコーディング
その結果、1928年2月(35歳)にハートはメンフィスのスタジオへ行き8曲を録音しました。その年に“Frankie”と“Nobody’s Dirty Business”の2曲だけリリースされました。この時、Okehレコードがジョン・ハートの名前にミシシッピをつけ売り出しました。
更に、1928年12月(36歳)ハートはニューヨークでの録音を依頼され12曲収録し10曲がリリースされましたが、コマーシャル的には成功はしませんでした。この時の最後のセッションで“Avalon Blues”を演奏し「アバロンは故郷/いつでも心の中にある」と歌いました。
翌年ウォール街大暴落が起き経済は落ち込み、ハートはそれから35年間レコーディングをする機会を失いました。故郷へ帰り、定職に就き2番目の奥さんジェシー・リー・コール・ネルソン(Jessie Lee Cole Nelson)と家族を養い、時間があるときに町でギターを弾く生活を送っていました。
再発見
1952年、ハリースミス編集の “Anthology of American Folk Music”がリリースされました。20年代から30年代初頭に録音された未知なアメリカ音楽が記録された歴史的に影響力のある1枚です。その中にハートの“Frankie”と“Spike Driver Blues”の2曲が含まれ、巧みなフィンガーピッキングが注目されましたが、当時謎な存在となっていて白人だとか、死亡しているのではと思われました。
1963年にワシントンDCの若い音楽家トム・ホスキンスがハートを探し当てる手がかりとなる1928年に録音された“Abalon Blues”が発見されました。歌詞の「アバロンは故郷」からそこにハートがいるのではと考え地図でアバロンを探しましたが見つかりませんでした。小さな町で見つけた1878年の地図でようやくアバロンがグレナダとグリーンウッドの間にあることを突き止めました。アバロンに向かったホスキンスは畑でトラクターに乗った71歳のハートに会うことができました。そこでテープレコーダーで録音し、ワシントンDCへ来るように誘いました。
1963年のニューポートフォークフェスティバル、フィラデルフィアフォークフェスティバルに出演し20年代と変らないスタイルを披露したハートは一躍有名になり、ブルースリバイバルシーンで歓迎されました。続く3年間、ハートは全国のフェスティバルやフォーククラブをツアーし、米国議会図書館やピエモンテ、ヴァンガードのレーベルのために多くの曲を収録しました。
晩年期
その後、ミシシッピに戻り妻とアバロンの東約20マイルあるグレナダ(Grenada, Mississippi)に定住し、1966年11月2日にグレナダの病院で心臓発作で亡くなりました。
ハートの孫娘アリー・フランシス・ハートはミシシッピ・ジョン・ハート財団を設立しました。ジョンハートの音楽的遺産と歴史を守りながら、恵まれない若者に音楽と教育の機会を提供することに専念する非営利団体です。財団はジョン・ハート博物館を設立しました。この博物館はハートの小屋から改築され、毎年ジョン・ハートの音楽祭を開催しています。
関係する人 / Persons involved
影響を受けた人 / Affected Persons
ルーファス・ハンクス
ジミー・ロジャーズ(カントリー)
共演者 / Co-star
ウィリー・ナムール(Willie Namour)
影響を与えた人 / The person who influenced
レオ・コッケ(Leo Kottke)
ステファン・グロスマン(Stefan Grossman)
ゆかりの地 / Land related to
①ミシシッピ州テオック(Teoc, Mississippi)
生まれた場所
②アバロン(Avalon, Mississippi)
育ったた場所で人生の大半を過ごした場所
③メンフィス(Memphis)
最初のレコーディングの場所
④ニューヨーク(New York)
2回目のレコーディングの場所
⑤ワシントンDC(Washington D.C.)
再発見され活動拠点とした場所
⑥グレナダ(Grenada, Mississippi)
亡くなった場所