情報 / Data
出生名 | リー・コンリー・ブラッドリー |
別名 | ウィリー・ブルーンジー、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ビッグ・ビル・ブルームズリー |
生まれ | 1903年6月26日 レイク ディック、アーカンソー州またはスコット、ミシシッピ州、米国 |
死亡 | 1958年8月14日(55歳) シカゴ |
ジャンル | ブルース |
職業 | ミュージシャン、ソングライター |
楽器 | ボーカル、ギター |
活動期間 | 1927–1958年 |
レーベル | Paramount、Bluebird、Vocalion、Folkways |
特徴 / Feature
- 戦前のシカゴブルーススタイルの創設者の一人で、戦後のブルースマンに多大な影響を与えた
- カントリーブルースからアーバンブルースへの移行期のキーパーソン
- 多岐にわたるレパートリー(アーバンからカントリーブルース、フォーク、伝統的黒人霊歌など)
- 作詞家であり、作曲家であり、ギターリストであり300曲以上もの著作権をもつ
- 2mを超える長身
略歴 / Biography
若年期
ビッグ・ビル・ブルーンジーは1903年6月26日にリー・コンリー・ブラッドリー(Lee Conley Bradley)という名前でアーカンソー州ジェファーソン郡(Jefferson County, Arkansas)で生まれました。
父フランク・ブラッドリー(Frank Bradley)と母ミッティ・ベルチャー(Mittie Belcher)はどちらも奴隷の血筋で、ビルは小作農場で9人の兄弟とともに育ちました。
但し、ビルの幼少期の情報は不確かで、生年月日は1893年、1898年とも言われていますし、出生地はミシシッピ州スコット(Scott, Mississipi)、兄弟姉妹は10人とも17人とも言われています。
音楽ジャーナリストで歴史家のロバート・リーズマン(Robert Reisman)が綿密な調査を行い出版された「I Feel So Good: The Life and Times Of Big Bill Broonzy」の情報は有力です。
子供の頃、小作人だった一家は畑仕事をするためパインブラフ(Pine Bluff, Arkansas)の近郊へ引っ越し、ビルは幼少期のほとんどをそこで過ごしました。小作人として働き、1912年から17年にかけて短期間巡回説教師として努める時期もありました。
1913年(10歳)頃、叔父(母親の兄弟)ジェリー・ベルチェー(Jerry Belche)よりシガーボックスで作った手製のフィドルを使い、黒人霊歌やフォークソングを習いました。
15歳(1918年)までにはかなりのスキルをつけ、友人でギター奏者のルイス・カーター(Louis Carter)と共に地元の教会やコミュニティのダンス場でヴァイオリンを弾きました。
青年期
ビルは、1917年に徴兵され、第一次世界大戦中1919年までの2年間ヨーロッパへ遠征し、除隊後、パイン・ブラフへ戻ったが人種差別を受けリトル・ロック(Little Rock)へ引っ越したと言っています。
しかし、ロバート・リーズマンの調査により当時14歳で徴兵年齢に達していないため、実際には戦争へは行ってなく、客受けのための彼の作り話だったとされています。
1920年(17歳)、ノースシカゴ(Chicago)へ移り生活のため数年間は工場など様々な仕事をました。でも、常に音楽のことは忘れませんでした。当時人気のあった豪華寝台車のポーターの仕事を授かりますが、旅が音楽の妨げになるため辞めてしまいました。
活動前期
1921年(18歳)に時代遅れになってきたヴァイオリンを辞めてギター奏者に転向しました。
1924年(21歳)にパラマウント・レーベル(Paramount label)のパイオニアだったパパ・チャーリー・ジャクソン(Papa Charlie Jackson)と出会い彼からギターを教えてもらい、ビルを彼の伴奏者として使いました。
1926年(23歳)ジャクソンのおかげでパラマウント・レーベルの黒人幹部ジェイ・メイヨー・ウィリアムズ(J. Mayo Williams)と結びつき、ジョン・トーマス(John Thomas)とのセッションでオーディションの機会を得ました。そして、2回目の挑戦でレコーディングの機会を得ました。
1927年11月(24歳)に”Big Bill and Thomps”のクレジットで”House Rent Stomp”(裏面:”Big Bill’s Blues”)の初レコーディングを成し遂げました。しかし、このときはあまり売れませんでしたが、その後レコーディングやパーティー演奏で副収入を稼ぐようになりました。
1930年(27歳)ジョージア・トーマス・ドーシー(Georgia Tom Dorsey) とフランク・ブラスウェル(Frank Brasswell)と共に”The Famous Hokum Boys”として活動し、彼のオリジナル曲 “I Can’t Be Satisfied”がヒットしました。
1932年3月(29歳)にはニューヨークへ行き、アメリカン・レコード・コーポレーション(ARC)の安価なレーベルでレコーディングをしリリースしました。このパートナーシップは1947年まで続きました。
大恐慌の経済的な危機の影響は続き、この年はブルースレコードは厳しい年で、6人しか発売されず、その中でもビルは20曲発行し知名度を上げました。
その後、シカゴへ戻るとサウス・サイド(South Side)のクラブで定期的に演奏を続け、メンフィス・ミニー(Memphis Minnie)とツアーを行いました。
活動中期
1934年4月(31歳)、レスター・メルローズ(Lester Melros)率いるブルーバード・レコード(Bluebird Records)の新しいシカゴスタジオでのレコーディングを始めました。
30年代後半から40年代に入るまでブルーバードでは契約上の問題で作曲家としてのみしかクレジットすることができず、非公式に働き何百ものレコーディングで演奏し、また、作曲・作詞家として活動をしました。その中には、異母兄弟のウォッシュボード・サム(Washboard Sam)、メンフィス・スリム(Memphis Slim)、 サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅠ(John Lee “Sonny Boy” Williamson)、メンフィス・ミニー(Memphis Minnie)などがいました。エレクトリックなシカゴブルースやロックンロールへつながるブルーバードサウンドの貢献者の一人でした。
1938年(35歳)、転機が訪れます。12月23日、New Yorkのカーネギーホール(Carnegie Hall)で行われた「From Spirituals to Swing」に出演する機会が訪れました。
プロモーターのジョン・ハモンド(John Hammond)は最初ロバート・ジョンソンを出演させるつもりでした。しかし、ジョンソンは本番の1週間前に彼が殺害されてしまいました。そこで代役としてビルが選ばれました。この出演はとても好評で翌年も出演し、ビルの名前は白人にも知れ渡るようになりました。
1939年(36歳)には、ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)、マキシン・サリヴァン(Maxine Sullivan)、ベニー・グッドマン(Benny Goodman)が参加しているミュージカル”Swingin the Dream”に短期間出演する機会を得ました。
1940年(37歳)、レスター・メルローズが発掘したスターのリル・グリーン(Lil Green)の伴奏者としてビルが選ばれ、彼女のツアーに参加したり、the Café Society、the Village Vanguard、the Apollo Theaterにも出演していました。AFMレコーディング禁止期間中(1944-46)でも多忙を極めていました。
1941年(38歳)、最も成功した曲”Key to the Highway”がリリースされ、ビルの代表曲となりました。
活動後期
40年代後半メルローズとのシカゴでの運営に陰りが出始めました。ちょうどその頃エレクトリックブルースが熱くなっていました。
1948年(45歳)、ビルの古くからのパートナー、サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅠが殺害され、ビッグ・メイシオ・メリーウェザー(“Big Maceo” Merriweather)が倒れました。2回目のAFMレコーディング禁止がありましたが、この時はレコーディングをしませんでした。
翌年1949(46歳)年、彼は大手のマーキュリー・レコード(Mercury Records)に移籍しました。
1949年後半、ウィン・ストラケ(Win Stracke)によって結成されたフォークミュージックレビュー「I Come for to Sing」の一員として各地の大学などをツアーしました。
エイムズ(Ames)の アイオワ州立大学(Iowa State University)でレビューが行われた時、レオナルドとリリアン・ファインバーグ(Leonard and Lillian Feinberg)夫妻と知り合いました。しばらくして、健康状態が悪くなり、医師から休息が必要と言われました。そこで、レオナルド・ファインバーグに連絡をとりアイオワ州立大学の寮の管理人の職を紹介してもらい、1951年(48歳)までエイムズで音楽から離れた暮らしをする決断をしました。ここでは学生たちからの協力で読むことを学びました。
1951年(48歳)、「I Come for to Sing」の成功で知名度が上がり、パリでのレコーディングの機会を得ました。そして、アメリカでは断り続けられたビルの曲「Black, Brown and White」が遂にヴォーグレコード(Vogue Records)で録音されました。
1945年にブルーンジーが書いた曲で、人種差別や人種的偏見をテーマにしたプロテスタント色のある曲です。ステージでは頻繁に演奏していた為、1947年にブラウニーマギーが初めてリリースしました。アメリカでリリースされたのは彼の死後で、1958年に「Get Back」というタイトルでリリースされました。
その後、ヨーロッパでかつてないほど人気があり、ヨーロッパツアーを行った最初のブルースマンの一人となりました。
1952年(49歳)には、2回目のヨーロッパツアーを行い、1953年にアムステルダム・ライブ・コンサートとしてレコーディングをしたコンサートを行っています。
彼はオランダに何度か行っていますが、その間にピム・ヴァン・イスフェルト(Pim van Isveldt)というオランダ人女性と恋に落ち、一人息子のマイケルを授かっています。彼の出生は謎が多かったのですが、オランダに残る彼女との手紙から出生年など多くのことが判明していきました。
晩年期
1955年(52歳)にベルギー人作家のヤニック・ブリュノゲの助けを借りて彼の自伝「Big Bill Blues」が出版されました。アイオワ州立大学で管理人をしながらの勉強が役立ちました。
ちょうどその頃、彼は咽頭がんにかかっていることを知りました。
1955年と1957年にはイギリスのほか、アフリカ、南米、東南アジアでも出演を続けました。
1951年から1957秋までにフランスとベルギーのそれぞれで彼のドキュメンタリー映画が作成されました。
1958年8月に癌のため55歳で亡くなりました。それは、彼の母親が亡くなってから1年後のことでした。
ゆかりの地 / Land related to
①アーカンソー州ジェファーソン郡(Jefferson County, Arkansas):生まれた場所
②パインブラフ(Pine Bluff, Arkansas)の近郊:家族が引っ越し、バイオリンを始めた場所
③シカゴ(Chicago):17歳の時に引越しギター活動を始めた場所
④パラマウント・レーベル(Paramount label):最初のレコーディングをした場所
⑤ARCレコード(American Record Corporation)ニューヨーク(New York City):1932年3月に契約しレコーディングをした場所
⑥ブルーバード・レコードのシカゴスタジオ(Bluebird Records Chicago Studio):レスター・メルローズの片腕として音楽活動をした場所
⑦カーネギー・ホール(Carnegie Hall):「From Spirituals to Swing」に出演した場所
⑧マーキュリー・レコード(Mercury Records):46歳の時に移籍した会社
⑨アイオワ州立大学(Iowa State University)エイムズ(Ames):管理人の仕事をして休養を取った場所
⑩サウス・パークウェイ(South Parkway):自宅のあった場所
⑪ヴォーグ・レコード(Vogue Records)パリ(Paris):「Black, Brown and White」が録音された場所
⑫アムステルダム(Amsterdam):オランダ人女性ピム・ヴァン・イスフェルト(Pim van Isveldt)と恋に落ちた場所
⑬リンカーン・セメタリー(Lincoln Cemetery):お墓のある場所
関係する人 / Persons involved
影響を受けた人 / Affected Person
ジェリー・ベルチェー(Jerry Belche)
パパ・チャーリー・ジャクソン(Papa Charlie Jackson)
レスター・メルローズ(Lester Melros)
ジョン・ハモンド(John Hammond)
共演者 / Co-star
ジョン・トーマス(John Thomas)
ジョージア・トーマス・ドーシー(Georgia Tom Dorsey)
フランク・ブラスウェル(Frank Brasswell)
ウォッシュボード・サム(Washboard Sam)
メンフィス・スリム(Memphis Slim)
サニー・ボーイ・ウィリアムソンⅠ(John Lee “Sonny Boy” Williamson)
メンフィス・ミニー(Memphis Minnie)
ルイ・アームストロング(Louis Armstrong)
ベニー・グッドマン(Benny Goodman)
ウィン・ストラケ(Win Stracke)
影響を与えた人 / The person who influenced
マディー・ウォーターズ(Muddy Waters)
エリック・クラプトン(Eric Clapton)
バディ・ガイ(Buddy Guy)
ジョン・レンボーン(John Renbourn)
おすすめの曲 / Recommended songs
I Can’t Be Satisfied(1930)
”The Famous Hokum Boys”として活動したときヒットした彼のオリジナル曲
Good Liquor Gonna Carry Me Down(1936)
Key to the Highway(1941)
最も成功した曲。前年にピアニストCharlie Segarが12小節版を録音。同じ年8小節のアレンジでビルがギター演奏しazz Gillumがリリース。翌年、ビルのオリジナルでリリースされている。
I Feel So Good(1941)
All by Myself(1942)
I’m Gonna Move to the Outskirts of Town(1942)
Black, Brown and White(1951)
ビルの作った人種差別への抗議色のある曲。アメリカでは最初録音が拒否られていたがフランスで初めて録音された。リリースはブラウニー・マギーが先におこなっている。
Hey Hey(1952)
Eric Claptonのアンプラグドで有名になりました。
Glory of Love(1955)
This Train(1962)
この曲をもとにLittle Walterの”My Baby”が産まれました。