- 情報 / Data
- 特徴 / Feature
- 略歴 / Biography
- ゆかりの地 / Land related to
- 関係する人 / Persons involved
- おすすめの曲 / Recommended songs
- Pony Blues (1929)
- Prayer of Death Part I (1929)
- Shake It and Break It But (Don’t Let It Fall Mama) (1929)
- Down the Dirt Road Blues (1929)
- Some of These Days I’ll Be Gone (1929)
- Tom Rushen Blues (1929)
- A Spoonful of Blues (1930)
- High Water Everywhere Part 1 , Part 2 (1930)
- Moon Going Down (1930)
- High Sheriff Blues (1934)
情報 / Data
別名 | 仮面のマーベル、 長老 J・J・ハドリー |
生まれ | 1891年4月 米国ミシシッピ州ハインズ郡 |
死亡 | 1934年4月28日(43歳)米国ミシシッピ州ヒマワリ郡 ヒースマン プランテーション |
ジャンル | デルタ・ブルース、カントリーブルース、ゴスペル・ブルース |
職業 | 音楽家、ソングライター |
楽器 | ギター、ボーカル、スライドギター |
活動期間 | 1916〜1934年 |
レーベル | Paramount、Vocalion |
特徴 / Feature
- デルタ・ブルースの創始者と呼ばれている(ターンラウンドと12小節ブルース)
- 体は小さいが、ガラガラ声で高エネルギーの歌唱力
- 完成したスキル(ブルースだけでない)と多彩なパフォーマー
- 乱暴で大酒のみ、8回の結婚
略歴 / Biography
若年期
チャーリー・パットンは1891年にミシシッピ州ハインズ郡(Hinds County, Mississippi)のエドワーズ(Edwards)または、ボルトン(Bolton)の近くで生まれました。しかし、パットンの血筋や生い立ちは定かではありません。
母親はアニー・パットン(Annie Patton)ですが、父親は不確かで彼女の夫で説教師のビル・パットン(Bill Patton)、または彼女の恋人だった音楽家で農夫のヘンダーソン・チャットモン(Henderson Chatmon)と言われています。
チャットモンの子供たちはミシシッピシェイキーズ(Mississippi Sheiks)などデルタのミュージシャンとして有名になり、1930円前後にブルースレコードを数多く製作する才能ある人々でした。いずれにしてもパットンはチャットモン家で多くの時間を過ごし、多大な音楽の影響を受けました。
パットンは黒人とされていましたが、現在では、白人、黒人、ネイティブの混血であるというのが一般的です。”Down The Road Blues”ではインディアン準州のチェロキーネーションの一部である「ザ・ネイション」と「ザ・テリト」に降り立ったことを歌っています。
1895年(4歳)に、パットン一家はエドワーズ・デポ(Edwards Depot)の近くに引っ越しました。
1897年(6歳)にミシシッピ州サンフラワー郡(Sunflower County, Mississippi)のウィル・ドッカリープランテーション(Dockery Plantation)に移りました。ドッカリープランテーションは綿花の優良な産地で黒人の小作人家族は比較的まともな生活が出来ていた場所でした。週末にはジュークジョイントで歌って、踊って、ギャンブルをして余暇を過ごせました。
活動期
この場所でパットンは、ヘンリー・スローン(Henry Sloan)という年輩の師匠と出会いました。スローンは、フィールド・ホラーとパーカッシブなギターリフをミックスした情熱的なデルタブルースのパイオニアでした。この期間にパットンはスローンの技術を完全に物にすることが出来ました。その中には3つの歌詞行からなる12小節の新しい形式(いわゆるブルース)もありました。
ウィリー・ブラウン(Willie Brown)ともこと地域で共演を始めました。後にサン・ハウス(Son House)とも一緒に演奏をしました。
1903年にWCハンディ(W. C. Handy)がタットワイラーの道で聞いたブルースはチャーリー・パットンだったかもしれないとも言われています。ハンディはそれを元に世の中にブルースを知らしめた人物です。
約30年間デルタ地域に定住して、数ドルでも稼げる場所ならどこでも行きブルースや他のジャンルでもギターを弾いて歌いました。1910年(19歳)には早くもニューオーリンズ~メンフィス~シカゴを巡回する旅をしました。
1920年(29歳)に、ミシシッピ州クラークスデール(Clarksdale, Mississippi)に住んでいた14歳のブッカ・ホワイト(Bukka White)にギターを教えたと言われています。
パットンはミュージシャンとしての才能だけでなく、エンターティナーとしての才能も持っていました。卑猥な話をしたり、ギターを股の間や頭の後ろ、横たわって弾いたりして群衆を喜ばせました。
パットンは身長はおよそ5フィート5インチ(約165cm)で、体重は135ポンド(61kg)しかありませんでした。しかし、そんな体から発せられる声は、信じられないほどのエネルギーと激しさを伴っているものでした。500ヤード(約450m)離れた屋外でもマイクは不要だったと言われています。
また、大酒のみで、怒りっぽく、頻繁に女を変えて酷く扱うような難しい男だったようです。ドッカリープランテーションから3回追い出され、結婚は8回もし、少なくとも1回は刑務所で服役するという波乱な人生でした。
レコーディング
ドッカリープランテーションにいたのは1929年(38歳)で終わりました。パラマウントレーベルのレコーディングに採用されたためです。パラマウントレーベルでは1929年と30年に3回、ボーカリオンレーベルでは1回レコーディングを行いました。
1回目のパラマウントレーベル(Paramount label)でのレコーディングは6月14日にインディアナ州リッチモンド(Richmond, Indiana)のジェネットスタジオで行われました。このセッションでは14タイトルが録音されています。
最初のリリースは”Pony Blues”と”Banty Rooster Blues”でした。2回目のリリースは”Prayer of Death, Part1″ および”Part2″ でした。その時の名前は”Elder J. J. Hadley”の名前でリリースされました。
3回目のリリース(11月頃)ではパットンの名前は伏せられ”The Masked Marvel” の名前でリリースされました。これはパラマウントレーベルの戦略で、買う人に誰が歌っているのか当ててもらい、当たった人は景品がもらえるという企画だったようです。
2回目のレコーディングはウィスコンシン州グラフトン(Grafton, Wisconsin)にあるパラマウントのスタジオで行われました。
3回目(1933年)のレコーディングセッションではサン・ハウス、ウィリー・ブラウン、ピアニストのルイーズ・ジョンソンを連れていきました。
4回目(1934年1月31日~2月1日)のセッションは、ニューヨーク(New York City)のボーカリオンレーベルで行なわれ23タイトルを録音しました。しかし、この時までにパットンは服役中に喧嘩で喉に傷を負ってしまいました。そのため、本来の声がでないパットンは妻のバーサ・リーと一緒に録音をしました。
これまでに60曲近くのレコードを世に残しました。
晩年期
1930年(39歳)にパラマウントとのレコーディング後にミシシッピ州ルラ(Lula, Mississippi)の町に移りました。
1933年(42歳)に内縁の妻でレコーディングパートナーのバーサ・リー(Bertha Lee)とミシシッピ州ホリーリッジ(Holly Ridge, Mississippi)に定住しました。1934年の初めにかなり激しい喧嘩をして二人はミシシッピ州ベルゾーニの刑務所に収監されました。
1934年4月28日(43歳)、ミシシッピ州インディアノーラ(Indianola, Mississippi)近くのヒースマン・デダムプランテーション(Heathman-Dedham plantation)で心臓病で亡くなりました。ホリーリッジの墓石のない墓に埋葬されましたが、後ん1990年になりやっと彼の墓石が建てられました。
「デルタブルースの父」とみなされているパットンは、ハウルン・ウルフ(Howlin’ Wolf)、ロバート・ジョンソン(Robert Johnson)、サン・ハウス(Son House)、ブッカ・ホワイト(Bukka White)、トミー・ジョンソン(Tommy Johnson)、ウィリー・ブラウン(Willie Brown)などの多くの後継者に影響を与えました。
ゆかりの地 / Land related to
①エドワーズ(Edwards)または、ボルトン(Bolton):生まれた場所
②エドワーズ・デポ(Edwards Depot):4歳こと引っ越した場所
③ドッカリープランテーション(Dockery Plantation):6歳の時に引越しギター活動を始めた場所
④リッチモンド(Richmond):38歳頃パラマウントレーベルで最初のレコーディングをした場所
⑤グラフトン(Grafton):パラマウントレーベルで2、3回目のレコーディングをした場所
⑥ニューヨーク(New York City):ボーカリオンレーベルで4回目のレコーディングをした場所
⑦ルラ(Lula):1930年(39歳)に引っ越した場所
⑧ホリーリッジ(Holly Ridge):1933年(42歳)に内縁の妻バーサ・リーと定住した場所
⑨ヒースマン・デダムプランテーション(Heathman-Dedham plantation):1934年4月28日亡くなった場所(インディアノーラ(Indianola近く))
関係する人 / Persons involved
影響を受けた人 / Affected Persons
ヘンダーソン・チャットモン(Henderson Chatmon)
ヘンリー・スローン(Henry Sloan)
共演者 / Co-star
ウィリー・ブラウン(Willie Brown)
バーサ・リー(Bertha Lee)
影響を与えた人 / The person who influenced
ハウルン・ウルフ(Howlin’ Wolf)
ロバート・ジョンソン(Robert Johnson)
おすすめの曲 / Recommended songs
Pony Blues (1929)
最初にリリースされた曲。かなり売れて当時南部ではあちこちでこの曲が聞こえいたらしい。
Prayer of Death Part I (1929)
Shake It and Break It But (Don’t Let It Fall Mama) (1929)
Down the Dirt Road Blues (1929)
Some of These Days I’ll Be Gone (1929)
Tom Rushen Blues (1929)
A Spoonful of Blues (1930)
刑務所やコカインについての歌
High Water Everywhere Part 1 , Part 2 (1930)
1927年の大洪水の時の歌
Moon Going Down (1930)
High Sheriff Blues (1934)
他、Jim Lee Blues, Lord I’m Discouraged, It Won’t be long, 34 Bluesなど